第7日 6月 5日(火) 水色枠の写真はクリックすると拡大写真になります。
今日の行程 La Fosse --- Pewsey White Horse(W) --- Alton Barnes W --- Marlborough W --- Hackpen W --- Broad Town W ---
Cherhill W --- New Devizes W --- Caen Hill Locks --- Westbury W --- Kilver Court Gardens ---
Iford Manor --- The Bridge Tea Room --- Glastonbury Abbey --- Shaftesbury --- La Fosse
今日の走行距離 374km
今日の万歩計 20,100歩
出発時点の気温 14.0℃
ラ・フォセ La Fosse at Cranborne
ラ・フォセは村の中心地"The Square"に位置する。The Squareとはいっても100m余りの広めの二車線の通りというに過ぎない。そこに店らしいものといえば、
ラ・フォセと向かいにB&B付きパブの"Sheaf of Arrows"があるだけの静かな場所だ。宿泊した2階の部屋の窓からその小さなパブが見える。
ラ・フォセはもっと小さな店だ。ウインドーボックスの色遣いがシンプルで好感が持てる。反対に通りのダイアモンドジュビリーの飾りつけは余り良い景観とは思えない。
昨夜と同じ部屋の真ん中の丸テーブルに座り(ここが滞在中の指定席となる)、本日もフルイングリッシュをオーダーする。
盛り付けは少々乱れているが、全てがジューシーで美味しい。昨夜のドイツ人男性が「写真を撮りましょうか?」と声を掛けてくれる。
交通事故 Traffic Accident
愉快な思い出ではないが、書かずに済ますこともできまい。ソールズベリー(Salisbury)の環状道路(Ring Road)に入るランドアバウトでのことだ。 私は3番目の出口で出たいので右車線からランドアバウトに進入した。同時に左車線から大型バスが進入した。
当然のことながら大型バスは1番目の出口を左折して行くか、2番目の出口で直進していくものと思っていた。
すると突然、大型バスが右にハンドルを切り、私の車に被さってきた。ブレーキを踏み、右に避けても直ぐに縁石が迫る。
あえなくバスは私の車の左前方をガリガリと擦って走り去る。
直ぐに妻にバスの名前とナンバーを控えるよう指示し、クラクションを鳴らして追いかける。バスはランドアバウトを1周し、ラウンドアバウト内で止まった。
付いてくるよう指示し(こちらの剣幕は日本語で伝わる)、ランドアバウトから出たところで運転手を降ろし話をする。「ランドアバウト内はバスが優先だ」とか
「そちらがバスの右に割り込んだ」とか勝手なことを言い出す。「当てておいて逃げたのはそちらだ。警察を呼ぼう」と言うと「怪我人もいない事故には警察は来ない」
と逃げる。バスの乗客も一人加わって強弁する。これらの会話は妻を介してだが、妻は助手席でバスが接触してくる間近にいたショックで気が動転していて通訳もままならない。
会話ができない我が身を呪いつつも、らちの明かない遣り取りをしていても無駄と判断し、ノートに事故の経緯を図書きしバス会社と運転手の名前と住所をサインさせ終わりとした。
ホワイトホース White Horse
B&Bから北へわずか30km先にソールズベリー平原(Salisbury Plain)が広がる。この平原を含めウィルトシャー(Wiltshire)にはストーンヘンジ
(Stonehenge)を始めとするストーンサークルなど不思議がいっぱいだ。何時かお目に掛かりたいと願うミステリー・サークル(クロップ・サークル)もその一つだ。
そして、今回の旅のテーマ”ヒルフィギュア”も目白押しなのだ。今日のスケジュールには9つがリストアップされている。
通算5つ目はピュージー・ホワイトホース(Pewsey White Horse)だ。
A345をピュージー村の南で西に1kmほど進むと左側に小さく見えてくる。遠くからだと小さな絵だし、近付くと斜めからの絵になってしまう。
正面から見るには牧草地のフットパスを行かなければならないが、パーキングは見当たらない。路上の2ヶ所から撮影する。
1937年にジョージ6世(George VI)の即位を祝って切られたものだという。横20m、縦14mと小振りだ。
ここには1785年に切られた"Old Pewsey White Horse"もあったのだという。
10kmほど北西に6つ目の
アルトン ・バーンズ・ホワイトホース(Alton Barnes White Horse)がある。
A345に戻りピュージー村からオールトン・プライオリー(Alton Priory)村に向かうローカルロードを行くと村の手前から右手の丘に見えてくる。
村を過ぎた先が正面でビューポイントだ。
1812年に切られたもので横49m、縦50mある。オールド・ピュージーを作製した人物またはその息子がここの作製に関わっているとの説もある。
二つは10km離れて向き合っていることになる。
また、2001年から冬至には蝋燭の明かりでイルミネーションする伝統が復活され、この6月30日には200周年を祝い盛大なイルミネーションがともされたのだという。
そして、不思議な現象がある。右が私が撮影したアルトン ・バーンズ・ホワイトホースの写真だ。白馬の背中にのっているように見える変なカットは
アルトン ・バーンズ・ホワイトホースで検索した100以上のサイトを覗いてみたが、これが写っているものは見当たらないのだ。
手元にはアップの写真もあるのだが、明らかに背中のカットは色が白く、新しくカットされたものと分かる。
このカットが25日後の30日の写真には痕跡さえ残っていないのだ。ミステリーだ。
次はウィルトシャーで最も小さなホワイトホースといわれる マールボロー・ホワイトホース(Marlborough White Horse)だ。 世界で最もポピュラーなタバコ・マールボロの名前の由来となった街といわれるマールボローの郊外だが、アクセスは余り良くない。 最も近いと思われる自動車整備工場前の路肩に乗り上げ駐車する。およそ500m余りフットパスを進むと可愛い白馬が直ぐそこに見える。 横18m、高さ21mで1804年に近くの男子校の生徒によって切られたという。1830年頃学校が閉鎖されるまでは学校の伝統行事として、 ホワイトホースの手入れが毎年行われていたが、その後の紆余曲折で手入れの度に形が変わり、今のように細くなったのだという。 サイズもサイトによってまちまちだ。
本日4つ目(通算8つ目)はハックペン・ホワイトホース(Hackpen White Horse)だ。
ナビ子ちゃんはマールボローの街からローカルロードのショートカットを選んだが、A4361から入るのが分かりやすいだろう。
なだらかな丘陵の農場を縫って走るシングルトラックの道だが、快適なドライブだ。上りきったかと思うと更に上りが続くを繰り返し、
ようやく丘を登りきった頂上にパーキングがあり人が大勢いる。ここがハックペン・ホワイトホースの現場に簡単にアクセスできる駐車場だ。
2004年に訪れたが、ホワイトホースは遠くから見るに限るが教訓だ。反対側に下り、振り向くとそこに白馬がいる。首や足が草に侵食され始めている。
1838年、ビクトリア 女王(Queen Victoria)の即位を祝ってカットされたもので、縦、横共に27mだ。
A4361に出て、クランクしてA4041をブロード・タウン((Broad Town)村に向かう。 ブロード ・タウン・ホワイトホース(Broad Town White Horse)も アクセスが悪い。A4041から集落を挟んで東側に見えるはずだ。道路のコ−ナーの広まった場所に駐車し民家の間を抜けると、生垣を刈っている青年に出会う。 「ホワイトホースを探している」と言うと「ここを真っ直ぐ行ったところだ」とのこと。舗装もされていない道で深い轍に水が溜まって歩きにくい。 200mほど歩くと見えていたが、かなり後方からの眺めなので首から上が見えない。更に200mほど歩いても変わりない。 その先は民家の敷地になるのでここで諦めるとする。起源は諸説あるようだが、1864年に刻まれた説が有力だ。横24m、縦18mの大きさだ。 戻ると先ほどの青年が「この地区には他にもホワイトホースがあるよ」と言う。リストを見せて「知っているよ。今日は9つ見て歩く予定だ」と伝えると「グレート!」と驚いて見せた。
南に下り、
ストーンサークルの中にあるエイブベリー(Avebury)村を懐かしく車窓見学して通過、
A4を西に進むと左手の丘の斜面にチャーヒル・ホワイトホース(Cherhill White Horse)が出現する。
1780年に切られた横50m、縦68mの堂々たるものだ。2004年に始めてホワイトホースに出合ったのがこのチャーヒルの白馬だ。
あの時は天気も良く、手入れをして間がなかったこともあってより鮮明で感動を受けたものだ。本日6つ目のホワイトホースとなると感動も今一となってしまう。
チャーヒル・ホワイトホースの先で次へのショートカットのローカルロードに入ると左手に白馬と並んでオベリスクがあるのに気付く。
第3代ランズドウン侯爵(3rd Marquess of Lansdowne)により1845年に造られた"Lansdowne Monument"と呼ばれるものだ。
とうとう雨が降り出した。本日7つ目のホワイトホースは
ニュー・デビズ・ホワイトホース(New Devizes White Horse)だ。
ローカルロードからA361を南下し、ラウンドウェイ(Roundway)村に入り見つけたホワイトホースはイギリス全土でも4つしかないという珍しい右向きの馬だ。
横46m、縦45mでミレニアムを祝い1999年に造られたウィルトシャーで一番新しいホワイトホースだ。
ここから1マイル離れた場所に1845年にカットされた"Old Devizes White Horse"があったそうだ。1945年、当時のDevizes Grammar Schoolの首席の生徒が
消えかけていた古い白馬を研究し、デザインを写し取り、新しい白馬をカットする計画を立てたが実現しなかったという。
1998年にミレニアムの白馬の計画が持ち上がった時、このデザイン画が採用されたのだが、左右反転して使われたため右向きの馬になったのだという。
この新しい白馬の下には1999年12月31日にタイム・カプセルが埋められたというロマンあるエピソードも目にした。
見つけた方角が悪かった所為だろう、余り美しい白馬ではないが、写真をアップすると美しい白馬もご覧いただける。
カーン ・ヒル ・ロック Caen Hill Locks
カーン ・ヒル ・ロックという閘門の情報を得る。
水位の異なる運河(カナル Canal)を繋ぐシステムのことだ。今までにも
回転式ボートリフトの”フォルカーク・ホイール”や
階段閘門式の”ネプチューンの階段”や
アップダウン式ボートリフトの”アンダートン・ボート・リフト”などを訪ねてきた。
カーン ・ヒル ・ロックは連続閘門式(フライト・ロック flight lock)という今までと異なったシステムだ。是非見るべしと遣ってきた。
お目当てのパーキングの指示を間違えたらしくイギリスにしては珍しく荒んだ工場跡に入り込んでしまった。雨は強くなるばかりだ。
またしてもロックの西の外れに路上駐車と相成った。
カーン ・ヒル ・ロックはケネット&エイヴォン運河(Kennet and Avon Canal ブリストル港からリーディングのテムズ川まで)全長87マイルの内、
最後に完成した2マイルのロック群だ。最後ということは難所ということだ。2マイル(3.2km)の間の水位差が72mあり、
これを29のロックで通行するのだ。29のロックは3つのグループに分かれ、西の低い部分1.2kmに7つのロックがある。
次の1kmには16のロックが連続し、直線的に急勾配を上る。この部分がフライト・ロックといわれる。そして、次の1kmに6つのロックが置かれているのだ。
ここで壮観なのは1kmに16ものロックがひしめく光景だ(写真下左)。その傾斜振りがお分かりいただけるだろう。傾斜が厳しく連続しているので
ロックで流出する水量を確保するためにロックの横に大きな池が造られているのが特徴だ。拙文で説明するより
"Google Map"をご覧いただいた方がわかり易いだろう。
中央に櫛のように見えるのがフライト・ロックだ。地図左の”+”をクリックして拡大してみると運河やボートも見られる。
運河全体の工事開始は1794年で運用開始は1809年だという。カーン ・ヒル ・ロックの完成は1810年だから、その間はトロッコで荷物を運んでいたのだ。
しかし、20世紀始めには鉄道の開通で徐々に廃止に追い込まれ、放棄されていたのだ。20世紀終わりになり、主にボランティアによって回復したのだ。
カナルボートの旅に雨も平日も関係ないのだろう。沢山のボートがロックを通過し上って行ったり、下って行ったりしている。
16のロックを通過するのに3時間、29全部を通過するには5、6時間掛かるということだ。ロックを開けるためにバーを押している男性を眺めていると
「黙って見ていないで、手伝ってよ」と声が掛かる。冗談と分かっているが、妻が手伝うと大いに恐縮していた(写真上右)。「バーには3トンの重さが掛かる」ということだ。
岸辺に舫ってあるカナルボートの主はどこに出掛けたのか無人のようだ(写真下左2枚)。この雨にもかかわらずテントを張って釣りを楽しむ人もいる。
膝から下はずぶ濡れでそれを眺めて歩く日本人も相当に酔狂に写っているだろう。ここは晴れた日にゆっくり再訪したい。
このロックはカナルボートの運行だけでなく、カヌー 、釣り 、ウォーキング、サイクリングなどの観光資源として、
さらには大きな池を持つことから水鳥やトンボなどの野生生物の保護にも役立っているのだ。
ホワイトホース White Horse
本日8つ目のホワイトホースは
ウェストベリー ・ホワイトホース(Westbury White Horse)だ。
B3098を東進すると右前方に美しい白馬が見え隠れしてくる。しばらく進むと左手に専用駐車場がある。これまでの8つの中で一番古い1778年のカットだが、
ダイアモンド・ジュビリーに合わせ、先月洗浄とペンキ塗りがされたばかりということで真っ白だ。目が黒く印象的で感動を覚える。
かなりの急斜面に輪郭もくっきりと横55m、縦33mにカットされている。
ローカル伝説によると878年にカットされたオールド・ホワイトホースがあったとのことだ。その馬は右を向いて、短い足と尻尾があり、
尻尾は上を向いていたといわれている。
初めてビューポイントのパーキングがあったというのに近くで見たくなるのが人情というものだ。更にB3098を東に走り白馬の真下から迫力ある姿を眺める。
ただ、通行量が多く車を止めて写真撮影とは行かない。見えなくなった時点でUターン、お目当てのガーデンに向かう。
ホワイトホースはイギリス全土に24あり(今は見られないものも含めて)、そのうち13がウィルトシャーに集中している。
しかし、現在見られるのは8つだけだというから、一日で全てを踏破下ことになる。快挙(暴挙?)だ。
キルバー・コート・ガーデン Kilver Court Gardens
キルバー・コート・ガーデンの写真をサイトで見つけた時も衝撃を受けたものだ。
それは背景に美しくも力強いビアダクト(Viaduct)があり"The Secret Garden of Somerset"と謳っている。行って、見るしかないと思った。グリグリ◎(競馬用語か?)を付けた。
A37沿いに小さなアウトレットのようなものがあり、洋服や食料品、家具類の店やカフェなどが並んでいる。受付らしきところが見当たらないので、
お店ではないが人の出入りのある入り口を入ってみるとトイレだ。トイレを済ませ、近くにいた人に「ガーデンは?」と訊くと「そのドアーを出た先よ」とのこと。
通路を行くと突如現れた光景に驚嘆だ。想像を超えるパノラマがそこに広がっていた(写真下左)。
興奮の余り、あっち行ってパチパチ、こっち来てパチリ、まるでお使いありさんのようにシャッターを押し続ける有様だ。
比較的狭い(とは言っても4000坪以上ある)ガーデンだから似たような写真ばかりだ。前後整理して紹介しよう。
まずは建物のテラスのパルテール(Parterre 写真上左3枚、下左)。パルテールを日本語では刺繍花壇とか装飾花壇と説明されている。
石や刈り込んだヘッジで幾何学的・対称的な紋様を縁取りし、その中に植物や色の付いた砂利などを配した花壇だ。早い話がベルサイユ宮殿のフォーマルガーデンだ。
ベルサイユに比べたら可愛いものだが、現在の所有者ロジャー・ソール(Roger Saul マルベリー(Mulberry)ブランドの創始者)が1996年に造ったガーデンだ。
青々としたヘッジの中はバラとハーブ類が植栽されている。咲き始めたバラは紫色のようだ。ラベンダーも紫で芳香を放つ。
アリウムも紫の大きな花を咲かせている。カラー・コンセプトはバイオレットのようだ。
このガーデンの起源は19世紀、実業家のアーネスト・ジャーディン(Ernest Jardine)が労働者の保養施設として水車用の貯水池を
ボート漕ぎのできる湖にし、ガーデンを造ったことに始まる。そして、菜園を造り、労働者の健康な食生活のために供したのだという。その湖が写真上右と下左から2枚目だ。
さて、ここで特筆すべきものは今は使われていない背景の高架橋だ。"Somerset and Dorset Railway"のチャールトン高架橋(Charlton Viaduct)として1874年に造られ、
1966年に廃線となったものだ。長さ300m、27本のアーチ、高さ15mの高架橋は近くで見ると威圧感さえ覚える存在感だ。
1960年キルバー・コートの所有者となったシャワリング家(Showering family 発泡飲料ベビーチャム(Babycham)の創始家)はチェルシー・フラワー・ショーの
ゴールドメダリストに依頼して高架橋の下にロックガーデンを造ったのだ。湖の水をポンプで汲み上げ、流れを造り、滝を造った。
植栽は多様なコニファーやカエデ、ホスタやシダ、カラーやフェザー、サクラソウやナデシコなど素晴らしいデザインだ。写真は上右3枚と下左3枚だ。
別の場所には"Organic Vegetable Garden"が2009年復活し、ジャーディンの慈善精神に則り地元の子供たちに解放されているという(写真下右)。
自然と人工物の美しい調和が心を落ち着かせるガーデンだ。一般に開放されたのは2008年のことだ。晴れている時に再訪したいと願う。
帰る時になって気が付いた。入場料を払っていない。お店に入って訊くと、カフェで支払うのだそうだ。
支払いが後になったことをお詫びし支払う。それにつけても、鷹揚な経営だ。ポストカード数葉も求める。
アイフォード・マナー Iford Manor
アイフォード・マナー(Google Mapでは”イフォード”と表記している)も初めての訪問だ。
建築家でランドスケープデザイナーであるハロルド・エインズワース・ピート(Harold Ainsworth Peto)が1899年、この土地の傾斜が
憧れのイタリアン・ガーデンに最適とのインスピレーションを受け購入したのだという。ピートはここに移り住み1933年になくなるまでここを動かなかったのだ。
ピートは建築家としてエドウィン・ラチェンスと同じオフィスで訓練を受けたが、ガーデンデザインに興味を持ち、その仕事を多く行うようになる。
特にイタリアン・ガーデンの魅力の虜となり、頻繁にイタリアを訪ねイタリア、フランス、スペイン製の様々なアイテムをコレクションしていたのだ。
このガーデンが"The Peto Garden at Iford Manor"と称される所以だ。
A36からローカルロードを東に1km余り、フローム川(River Frome)に架かる橋を超えると目の前に深い森を背景にアイフォード・マナーが建っている。
この石橋は1400年頃のものでピートがここに来た時には欄干の上の像は失われていたので、ピートが18世紀のブリタニア像を寄付したのだ(写真下左)。
一般公開されていないマナーハウスの脇に回り込むとロッジア(Loggia)だ(写真右)。ここがレセプションだ。
無愛想な女性が一人「この雨の中、物好きね」とでも言いたそうな顔をして迎える。入場料£10を支払うとレシートの代わりに
赤い紙が渡された。「一切責任を負いかねます」との注意書きだが、
それほど急な斜面に造られたテラス・ガーデンだということだ。雨に濡れた足元に注意して散策を開始する。
ロッジアから見て左手がテラスを上がる急な階段だ。柱の上に載ったブロンズ壷(Urns)やの鹿の像が荘重な雰囲気を醸す(写真上左から2枚目)。
鹿の像の下は水が流れ込む池がある。
階段は後回しにして小道を進むと右手下にブロンズの男性像が載ったゲートが見える(写真上右から2枚目)。
案内図も何もなかったので見落としたが、ウォールド・ガーデンだったようだ。(公開されているかどうかは不明)
そして森の中に見えてきたのが回廊(cloister)と呼ばれる建物だ(写真上右)。入り口の両脇のコラム(円柱 下にライオン像が控える)、ランセット窓、
壁のニッチの像、壁のレリーフなどイタリアでコレクションした品々だろう。
中は井筒(Well Head)と思われる石のモニュメントのある中庭を囲む回廊がある(写真右)。夏にはここでオペラやコンサートが開かれるのだという。
この時も照明の取り付け工事をしていた。近々イベントがあるのだろう。そんな時に遭遇したいものだ。(床にコードが見える)
芝生の中を歩いていくとサマーハウス(Summerhouse)ともガゼボ(Gazebo)とも呼ばれる建物が建っている(写真上左)。
その先には睡蓮の咲く池(The Lily Pool)がある。池の縁には開花し始めた藤の中に重厚な像が、そして後方には柱廊(Colonnade)が見られる(写真上左から2枚目)。
メインのテラスに上がる。グレート・テラス(great Terrace)だ。その北西の端はカシータ(Casita スペイン語で”温かくて小さな家” 写真上右)
と呼ばれる建物の前にトピアリーや像を配したフォーマルガーデンだ(写真上右から2枚目)。カシータのピンクの円柱はベローナ(Verona)の13世紀の大理石だ。
立派なテラコッタもアクセントだ。
ピートは"a gardens beauty lay in the combination of architecture and plants"と言っている。さすがに建築家だ。ロッジア、回廊、サマーハウス、
柱廊、カシータなど幾つもの建築物を緑の中に配し、様々な植物で囲んでいる。その植栽は同時代のガートルード ・ジキルの手法を参考にしたようだ。
そして、それはガートルード ・ジキル自身からも非常に賞賛されたのだという。ジキールとラチェンスの名はどこにも現れる。
グレート・テラスの複雑な刈り込みのトピアリーも驚嘆ものだ(写真上左)。ロマネスク様式のコラムや柱廊にもバラが絡んでいる(写真下左2枚)。
また、通路には2、3世紀のギリシャの石棺も置かれており、少しおどろおどろしい気がしないでもないが、厳粛さも感じる。(写真右)。
グレート・テラスから階段を上った先の斜面にもコラムが立っている。当時の国王エドワード7世(King Edward VII)の像だ(写真下中)。
階段をハウスの裏まで下りるとパティオ(Patio Garden)がある(写真上左から2枚目)。良く管理されたパティオだ。
最初に後回しにした階段の上が温室テラス(Conservatory Terrace 写真上右から2枚目)。このテラスも豊富な植栽と芝の緑に溢れ、
様々なファーニチャーやスクラプチャが配されている。
狼が双子の赤ちゃんに授乳している像がある。オリジナルはローマの"Capitol Museum"あり、古代ローマの伝説を表した"The Capitoline Wolf"だ(写真右)。
ピートは植物とコンビネーションしたのは建築物だけでなく像、石棺、壷、テラコッタ、プール、通路、階段なども組み合わせ、調和させている。
3日に訪れたヒーバー城のイタリアンガーデンの像なども素晴らしかったが、ここは建築物のバラエティーがある点で一歩勝っているかもしれない。
しかし、ヒーバー城の開放的な明るい雰囲気とピート・ガーデンのしっとりした落ち着いた雰囲気は甲乙つけ難い。
お天気の良い時にもう一度ゆっくり回りたいガーデンだ。
ザ・ブリッジ・ティールーム The Bridge Tea Room
ティールームとして日本でもイギリスファンには余りに有名なザ・ブリッジ・ティールームに遣ってきた。
私たちはフルイングリッシュ・ブレックファストをいただくとディナーまでは軽いショートブレッドでもつまめば足りてしまうので、
ティールームにはさほど関心はないし、わざわざ訪ねるということはしないのだが、素敵なティールームの情報があれば押さえておく。
アイフォード・マナーのアドレスにブラッドフォード・オン・エイヴォン(Bradford-on-Avon)の名前を見つけた時から、ここに寄ることを楽しみにしてきた。
ナビ子ちゃんは指定の橋の袂のパーキングにピタリと導いてくれる。今日はダイアモンド・ジュビリーの休日だから無料だ。ラッキー。
店の場所は直ぐ分かった。1502年に建てられた元は鍛冶屋の建物だ。さすがに500年の風雨に晒され、傾いてい見える小さな建物だ(写真下左)。
ドアーを押し、石段を1,2段下って店に入る。それでも低い天井とうねりのある床は年代を感じさせる。2階への階段付近の席に案内される。
オーダーは"Empire Full Afternoon Tea"を2つ。"A selection of finger sandwiches and cakes. Warm homemade scone with strawberry preserve and Dorset clotted cream.
Any tea of your choice"。シャンパンつきのメニューもあるが、朝の事故が気になるので自重する。
メニューには朝食とランチもある。お茶の数は30種類を越す。日本茶も"Japanese Sencha"と"Japanese Genmaicha"の2種類が載っていた。
お客は引っ切り無しだ。私達の次の客は表で待たされている。観光客だけでなく地元のお馴染みさんも多いようだ。全部で45席という小ぢんまりした店だ。
ビクトリア朝スタイルのコスチュームの清潔な印象のウエイトレスが忙しく行き来している。写真を撮らせてもらうのが憚られたのでホームページの写真を借用した。
("One of our waitresses in the 1990s" と記されている ⇒)
創業1675年(circa 1675)の老舗で様々なアワードを例年受賞しているという割りに気取ったところのない店だ。"Traditional Tiered Stand"に載せられ、
恭しく出されたアフターヌーンティーも素朴な雰囲気だ。上段に大きなスコーンが2つとたっぷりのドーセット・クロテッドクリームとイチゴジャム。
中段にはミニというには大き目のケーキが4種8つとイチゴ、下段にサーモン、ハム、タマゴのサンドウィッチが12切れとトマトときゅうりのスライスと、
どれを取ってもボリューム満点、上品振った所はない(写真下左 バックの暖炉の上のアンティークな置き時計が素晴らしい)。
「写真を撮っても良いか?」と訊ねると、可愛いウエイトレスが「お撮りしましょう」と言ってくれる(写真上左から2枚目)。
バックにさり気なく入っているモザイク風のプレートはイギリスで最も権威ある賞”トップ・ティープレイス・オブ・ザ・イヤー”のプレートだ。
1998年(左)と2009年(右)の2回も受賞しているのは素晴らしいことらしい。他にもアワードのプレートや額が誇らしげに飾られている(写真下左から2枚目)。
1時間以上頑張って食べたが全部は食べきれない。ケーキを5つ残して会計をしようとすると、店主らしき女性が「残りを持ち帰りますか?」と言う。
このサービスには正直びっくりする。食べるチャンスはないかもしれないとは思いつつ甘んじて受ける。(結局食べず仕舞いに終わってしまった。
(事程左様に間食しない二人なのだ)
ティールームと一軒隔てた"The Three Gables"というレストランも古い建物のようだ(写真上右)。直ぐ向かいには豊かに蛇行するエイボン川(写真上右から2枚目)に
架かる美しい橋が見える。橋の南の袂の両側に小さな広場があり、それぞれモニュメントが立てられている(写真下右2枚)。
グラストンベリー・アビー Glastonbury Abbey
ブラッドフォード・オン・エイヴォンの出発が17時35分、リストアップした訪問先の幾つかはカットとなるが、一つだけ20時までという施設がある。
それがグラストンベリー・アビーだ。降りしきる雨を突いて走る。
グラストンベリーの街に入ってもトー(Glastonbury Tor)の姿は霧でその方角さえ分からない。
グラストンベリー・アビーは7世紀に設立され、10世紀に発展拡張した。12世紀に火事で焼失するが、14世紀にはイングランドで最も豊かで、
最も強力な修道院へと発展するのだ。しかし、16世紀にヘンリー8世の解散令により破壊され、現在は廃墟となっている。
入り口に最も近いパーキングは込んでいるかと心配したが、オープン時間が終わってしまったのかと心配になるくらいガラガラだ。
それもそのはず、外に出るのを躊躇うほどの雨だ。小止みになるまで暫し車中で待って入場する。芝の中は水溜り状態だ。
写真下は左から十字架(The Queens Cross)の向こうに聖母礼拝堂(Lady Chapel)の廃墟が美しい。これが最も良く残っている部分だ。
レディー・チャペルの地下に下り、最も西側から祭壇方向を見る。パーキングとの壁のバラ、心和む。八角形の修道院長の台所(Abbot's Kitchen)だ。
聖母礼拝堂に続いて"Great Church"の廃墟がある。長さ140m、幅25mはあろうかという壮大のものだったようだ。写真下左の右の壁が身廊(Nave)部分の側壁だ。
左に見える2つのアーチは南北の翼廊(Transept)のアーチだ。アーチの下に立つと大変な規模だったことが伺われる(写真下左から2枚目)。
ここには少なくとも12世紀からアーサー王の伝説があり、王の墓跡といわれる場所もある。
レイラインも通っている場所だということだが、今日の私には何も感じられない。少々疲れている所為だろう。
中庭のブロンズ像に惹かれる。ロバに乗った修道士と子供の像だ(写真下右から2枚目)。二人の顔がとても穏やかで温かく感じられる。(写真を拡大すると顔の拡大写真も)
置かれたプレートによれば修道士は10世紀にグラストンベリーで修行し、カンタベリー大聖堂の大司教となった"Sigeric"と分かる。
しかし、”この像のシーンが表すものは何か?”が気になる。色々調べたが、多くは分からない。Sigericがローマ法王からカンタベリーの大司教になる許可
(すなわち大司教用肩衣(pallium))を得るためにカンタベリーからローマまでの巡礼中の一シーンで農家の子供が収穫した果物をお布施している場面ではないかと思われる。
この時代の巡礼は危険と困難の連続であった中、Sigericは80日でローマに到着した。それは画期的なことでその順路がその後の巡礼者の指針となったようだ。
(このことは定かな情報ではない。私の憶測に過ぎない) そんな風に見るとほのぼのとした中に厳粛な気持ちもしてくる。
シャフツベリー Shaftesbury
シャフツベリーは2004年に訪れた。
サイトで見たゴールド・ヒル(Gold Hill)の眺望に惹かれてやってきたのだ。あの時はヒースローからストーンヘンジ(Stonehenge)に立ち寄りここに着いたのだった。
パーキングのトイレに行くと鍵が閉まっていた。我慢してきたのに参ったなと、あれこれやっていると、おばちゃんがやって来て「時間だから今、閉めたところなの。
この鍵を使って」とありがたい親切だ。甘えついでに「ゴールド・ヒルのビューポイントはどこか?」と訊ねると「近道はこちらよ。着いていらっしゃい」
と案内してくれたのだが、その後教えられた場所は"Park Walk"という散策路であってゴールド・ヒルではなかったことが判明する。
今年はそのリベンジを果たそうと考えてきた。シャフツベリーはグラストンベリーからB&Bへの通り道になる。通過した時間が丁度20時、
霧も深いし薄暗くなってきたが、折角なので懐かしいパーキングに車を止める。しかし、ゴールド・ヒルもハイストリート(写真下左2枚)もご覧の通りだ。
そこで8日の朝に通過した時に撮った写真を掲載しよう(写真下右)。ご覧のように、ゴールド・ヒルは石畳の狭い急な坂道がカーブを描き下っていく通りに
小さな家が立ち並び、その屋根の向こうにドーセットの自然が広がるという、取り立てて騒ぐほどの光景ではないのだが、されどシャフツベリーなのだ。
そして、"HOVIS"というパン屋のテレビコマーシャルで全国的に有名になったのだという。そのCMが1972年の
”バイクの男の子(Boy on Bike)”だ。
坂の上には大きなパンの形のモニュメントも置かれている(写真下右から2枚目)。
変わったヒルフィギュアで"Fovant Regimental Badge"というものがある。第一次大戦中に兵士が各連隊のバッジ(徽章)をチョークの丘に刻んだものだ。
少し回り道をして見て帰る予定ではあったが、この霧ではそれも叶わぬことだ。次の機会に取っておこう。
ラ・フォセ帰着は20時40分になった。レストランの調理が一段落したオーナーシェフのマークにバーでシングルモルトとグラスワインをサーブしていただく。
今日の出来事を話す。ホワイトホース8つの制覇には驚いていた。シングルモルトを御代わりし、部屋に持ち帰って楽しむ。
17時にあのボリュームのアフターヌーンティーをいただいたから、まだお腹は空かない。今夜のディナーはなしだ。
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